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  • tomoko0105712

ティール組織における「全体性」(Wholeness)について



**** 2019年の下記イベントに関する記事再掲です。ティール組織における「全体性」が成立する条件について、メンバー後藤による発達理論の観点からの整理・解説となります。


『ティール組織』探求シリーズVol.2【全体性(ホールネス):「ティールな学校」から考えるこれからの「子どもと大人の学び」】藤原さと×佐野和之×中竹竜二×嘉村賢州

**** 登壇者の藤原さん、佐野さん、嘉村さんとは日頃から交流させていただいており、その意味でも興味深いイベントであったのだけれど、登壇者の方々のフリーディスカッションにおいて、「ティール組織」の理論的背景となっている「発達理論」に関する話題が中心を占めていたために、これまで「発達」を軸に教育を考えてきた僕にとってはより身近に感じられる議論となった。


「発達」について正しく理解することは、今回のイベントのテーマでもある「ティール組織」の重要な一要素「全体性(Wholeness)」とは何かということについて理解するために絶対に必要であると僕は考えている。しかしながら、「発達理論」に対する日本国内の認識はまだまだ浅く、イベント内での議論でも時としてその解釈をめぐって混乱が見られたように思う。


そこで、以下、イベントでの登壇者の方々の議論も踏まえながら、ティール組織における「全体性」が成立する条件について、発達理論の観点から僕なりに整理・解説を試みてみたいと思う。


全体性の条件①:意識の重層性


「ティール組織」の背景にある発達理論に関する議論は、登壇者の一人である中竹竜二さんの、以下の問題提起から始まる。

「組織の発達段階としてここに提示されているものは、はたして本当に『段階』なのだろうか?自分には、どうしてもそうは思えないのだが・・・」

これは、「組織の発達は、個人の発達とまったく同じ過程を経て進行する」という、古くからある考え方に対する典型的な疑問であり、発達理論について語る上で避けて通れない議論の一つであると思う。


僕の理解では、個人の発達には、ある普遍的なパターンないし段階があるということは、現代の発達心理学者の間ではすでに合意事項となっている。しかし、その同じ発達のパターンを、組織の発達そのものにも認めるべきであるかどうかという話になると、そこは意見が分かれるところであって、中竹さんの言うように、ティール組織が前提としているような組織の発達が、本当に段階論として語り得るのかどうかという点には疑問が残る。


これが、まず踏まえておかなければならない一つ目のポイントである。「ティール組織」について語るとき、えてして人は「組織」としての在り方と「個人」としての在り方を混同して語ってしまうのだが、個人的には、組織を運営する個人の意識に焦点を当ててこの問題を語った方が、より信頼性の高い議論ができるだろうと考えている。


そのうえで、おそらく中竹さんのご指摘のなかに込められていたのは、「ティールを発達段階の上位に階層的に位置づけるということは、『ティール』的な発想を絶対化することに他ならないのではないか?」という、ある世界観、ないし価値観が絶対化されることへの至極真っ当な批判意識だったのではないかと思われる。


この点をどう考えるか。それが二つ目のポイントであるだろう。このことについても、実は、発達心理学者の間では共通した見解がある。それは「発達の段階が高ければ高いほど『良い』ということにはならない。問題なのは、その段階の意識を持つことが、その主体を取り巻く生存条件にフィットしているかどうかということである」ということだ。


たとえば、今、この部屋に暴漢が入ってきたとする。その時、僕の身を守るために必要なことは、ティールやグリーンといった高次の段階の意識を発動することではない。まさか、暴漢を相手にフェアな話し合いで解決するというわけにはいかない。僕がいまここでやらなければならないことは、自己防衛的な衝動を最大限に発揮するということである。すなわち、「殺すか、殺されるか」という、レッドの世界のなかに身を置いて、その世界観のなかで正しく振る舞うことができるかどうかということなのである。


つまり、必要なことは、ある特定の段階を絶対視して、常にその段階の行動論理に沿って行動せよ、ということではない。複数の段階を生き、その時々に世界が必要としている段階の論理に従って生きよ、というのが正しいのだ。僕たちは、つねにティール的に振る舞うのではない。戦場では自らの身を守ることを優先し(レッド)、教会では敬虔な信者として振る舞い(アンバー)、職場では明日の売り上げを追い求め(オレンジ)、SNSのオフ会では同じ問題意識を持った仲間としてお互いを尊重する(グリーン)。それが人生である。その時々に世界が衝きつける課題に、正しい仕方で応えること、それが責任(

responsibility)である。ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナがアルジュナに説いているように、戦うことが神聖な義務であることもあるのだ。


そもそも、ある特定の段階を絶対視するという考え方は、発達段階理論の考え方にそぐわない。そのような考え方は、ケン・ウィルバーが「フラットランド」と呼んで最も厳しく批判したものだ。そして、この意識の重層性を正しく理解し、様々な段階の行動論理を適切に発動できることが、本来は「ティール」の特徴なのである。しかし、「ティール組織」では、ティール組織を特徴づける要素として「フラットであること」を過度に強調するために、この点が誤解されやすいという欠点がある。そうではなく、あらゆる段階のリソースを適切に使いこなすことができるのが、ティールの特徴なのである。重層的な意識を保ちながら、複数の段階を行き来することのできる柔軟性が、ティールの意識には求められる。ティールという言葉を正しく理解するためには、まずはこのことをおさえておく必要があるだろう。


全体性の条件②:葛藤から生まれるエネルギーの活用


意識の重層性というものが正しく意識されると、当然、そこには様々な葛藤が生まれることになる。なぜなら、意識の重層性に気付くということは、同時に、自己の複数性というものに対しても、自らの存在が開かれていくということであるからである。


このことについては、登壇者の藤原さとさんが実に的確な指摘をしていた。それは「たとえば、オランダの教育はすばらしいと一般に言われているが、現地で実際にその教育を見ている人たちからは、オランダの教育には、あまりにも葛藤が少なすぎる、という指摘もある。葛藤から生まれるエネルギーというものがあるのではないか」という指摘である。


さとさんのこの発言は、グリーン、ないしティールのパラダイムが絶対視され、低次の段階が全く考慮されないこと(フラットランド)の問題点を、実に的確に言い当てているといえるだろう。ピアジェは、発達とは、不均衡な状態をより高次の均衡状態を作り出すことによって解消することであると言っているが、リベラルで先進的な教育の多くは、つねに子どもにとって「快適な」状態を作り出すことによって、そうした不均衡、ないし葛藤状態のなかで学ぶ機会を子どもから奪っているともいえるのではないだろうか。


また、教育に携わる側の人間がつねに自らの内に葛藤を抱えていることの重要性も、今回のイベントのなかでは浮き彫りになった。「『子どもたちに任せる』という教育方針に自信を持ってはいるものの、時々、このやり方がはたして子どもたちにとって最善なのか、と不安を感じることがある」という参加者の教員の方からの発言に対して、登壇者の方々は一様に「そうした葛藤を抱えていることが重要なのです」と答えていた。そう、こうした複数のパラダイムの狭間で葛藤を感じることができるということそのものが、実はティールの条件なのである。低次の状態は、自らの段階の行動論理を絶対的なものと見做す傾向があるために、そもそも、こうした葛藤を感じることができない。


ティール的な権限移譲のスタンスを保ちつつも、場合によっては上意下達的な指示を自らの生徒(あるいは部下)に対して行うことが必要な場面もあるかもしれない、と考えることができるかどうかが、それが真正の「ティール」であるかどうかを判断する大きなポイントである。一見、「ティール」的な価値観を謳っている組織であっても、この葛藤を感じることのできない組織は、おそらく、十分に機能することはないだろう。


僕は、低次の意識からの呼びかけが、その人の仕事をより力に充ちたものにしてくれる可能性というものを、つねに信じている。それはちょうど、映画『セッション』のなかで、主人公のドラマーが師匠の執拗なパワハラにブチ切れて、信じられないようなパフォーマンスを見せたように。抑圧された「レッド」の力が解放され、それがより広い文脈と結びついたときにあるひとつの恩寵となるような瞬間があるのだという可能性を、僕は決して否定することはできない。


全体性の条件③:BodyとMindの統合


そのように、複数の段階の自己と自己の間に生じる葛藤をエネルギーに変えるということを、ウィルバーは「BodyとMindの統合」という言葉で説明している。


「オレンジ」の段階に至るまでの発達は、一般に、合理性が増大していくプロセスとして理解されている。我々が生きる現代社会もまた、「オレンジ」の段階を最高の段階として考える傾向にあり、その意味では人間の「合理性」に全幅の信頼を置く社会であるということができる。


しかし、グリーン以降の段階では、合理性が切り捨ててきたものの価値に気付き、それらを再び自己のなかに統合しようとする動きが生じる。それはたとえば、自然のリズムで生きることであったり、家族との時間をより大切にすることであったりするだろう。いずれにしても、それは、合理性=Mindの次元が認識する価値の領域よりも、自らの内なる自然=Bodyの次元が認識する価値の領域に属する事柄である。


藤原さとさんは、ワーキングマザーとしての自分に限界を感じ、自分の身体のセンサーに目を向けることで、第二の人生を歩むことになったという経緯を語っていたが、それはまさに、さとさんにとって「オレンジ」の段階を超えていこうとするときの重要な契機であっただろう。


自らのなかにある重層的な自己を抱擁することができるためには、つねに低次の段階の声に耳を澄ますことのできる感性が必要となる。それはすなわち、自らの身体性を研ぎ澄ませるということである。ここで「低次の価値」と呼んでいるものは、より「基本的な価値」と呼んだ方が適切であるかもしれない。「低次」であるということは、より価値が少ないということではない。ウィルバーの言葉を借りれば、低次の価値の領域は、存在を支える「基底価値」の領域においては、最も多くの価値を有するからである。すなわち、より自然に近いところの価値は、その存在にとり、最も基本的な価値であり、それなくしては人生の重要な真理には決して触れることができないような何かなのだ。


全体性の条件④:自己中心性の減少


このイベントの登壇者の方々が一致して語っていたのは、組織運営において、自らの弱さをさらけ出したことが、その組織がティール的な段階へ進むための突破口(ブレイクスルー)になったということだ。


これは一つには、上に書いたように、身体のセンサーがキャッチした「違和感」を言葉にすることのできる、その人の「誠実さ」が、組織を動かす契機になるということであるように思う。しかしながら、組織のトップに立つ人間が、自らの仮面をかなぐり捨てて、弱さを内包した一人の人間として振る舞おうとすることには、当然のことながら、大変な勇気がいる。


それができるためには、エゴに執着する自分を捨てて、自分を超えた世界そのものの進化に重きを置く自己を確立することができなくてはならない。これもまた、「ティール」の段階において個人が獲得することになる意識の状態である。


マズローが指摘したように、第一層(first-tier)の発達段階(これは「グリーン」以前の段階に相当する)において、人は「欠乏欲求」に基づいて行動する。言い換えれば、それは常にego-centricな欠乏感を埋め合わせることに第一義的に動機づけられた段階であり、「恐れ」をその原動力としているということができる。


この段階の自己にとっては、自らの弱さをさらけ出すなどということは、考えられないことであろう。そのように、あえてエゴを揺さぶるような状況に身を置くことは、ego-centricな自己に立脚している限り、言語道断であり、決して許されることではない。リーダーたるもの、つねに強く、揺るぎない姿を下の者に対して示していなくてはならない。


一方、マズローによれば、第二層(second-tier)の意識(これは「ティール」以降の段階に相当する)に到達した個人は、そうしたego-centricな欠乏欲求から相対的に自由になり、組織と個人の相互作用による健全な「成長」を志向するようになる。そこでは、より広い文脈へと自らを開いていくことが第一義的に目指されることになる。個人は「成長欲求」に衝き動かされ、そのためには古い自己は積極的に解体され、健全な階層性のなかに位置付けられるようになるのである。


以上を要約するなら、結局のところ、ピアジェが発達を定義した次の言葉に帰結するだろう。すなわち、「発達とは、自己中心性の減少である」。


「ティール」というコンセプトの流行に対して僕たちが警戒しなければならないのは、まさにこのポイントである。ティールの方がより生産性が上がるからとか、トレンドを追うことがビジネス上有利であるからという理由で「ティール」を普及することは、ego-centricな意識を維持したまま、egoが行う以上のことをしようとする自己矛盾的な行為である。


むしろ、そのようなオレンジ的な意識を相対化し、自己を超えたものに対する敬意を払うことこそが――そして同時に、自らの存在の基礎をなすあらゆる段階に敬意を払うことこそが、本当の意味で「ティール」を体現することであるのだということを、これまで多少なりとも人間の「発達」について学んできた人間として、訴えていきたいと思っている。



筆者:後藤 友洋


インテグラル・ジャパンにて人間の統合的な成長・発達に関する研究と実践を行う。大学卒業後は国語専門塾に勤務し子どもの発達と言語の関係に着目した作文指導・読書指導を実践。現在は21世紀型の教育へのシフトを志向する中学校・高校と連携し、学習支援プログラムを企画・運営する仕事に従事。 オリジナル記事URL:http://logos425.jugem.jp/?eid=108




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